変化のただ中で立ち止まる 移ろいゆく風景と静かな確かさ
移ろいゆく風景に寄せて
旅は、時に私たちに見慣れない景色を見せ、そして時に、最も見慣れたはずの「変化」という摂理を改めて突きつけます。かつて賑わった宿場町が静寂に包まれていたり、力強く流れていた川の流れが緩やかになっていたり。自然も、人の営みも、絶えずその姿を変えていきます。
私たちは、どれほどの変化を経て、今ここに立っているのでしょうか。振り返れば、幼い頃に見た風景はもうそこにはなく、共に時間を過ごした人々も、かつてと同じではありません。私たち自身の身体も、思考も、価値観もまた、静かに、しかし確実に移り変わってきました。人生という長い旅路において、この「変化」という事実は、時に戸惑いを、時に感慨をもたらすものです。
旅路で触れる時間の堆積
ある時、私は海沿いの小さな町を訪れました。かつては漁業で栄えたであろう港には、錆びついた漁具が打ち捨てられ、古い木造の家屋は潮風に晒されて色褪せていました。しかし、よく見れば、その隙間から新しい緑が芽吹き、崩れかけた壁には新たな装飾が加えられている場所もありました。時間はすべてを等しく風化させるわけではなく、古いものを朽ちさせながらも、同時に新しい生命や営みを育んでいるのだと、その風景は静かに語りかけているように感じられたのです。
それは、単なる物理的な変化の観察に留まりませんでした。打ち捨てられた漁具は、そこで生きた人々の熱い息吹の痕跡であり、色褪せた家屋は、幾世代にもわたる家族の物語を内包しているかのようでした。そして、その古い跡の上に芽吹く緑や新しい営みは、時の流れの中で受け継がれ、あるいは新たに創り出されてゆく生命の力強さを示唆しているようでした。
この移りゆく風景の中に立ち、私は自身の人生の風景を重ねていました。多くの出会いと別れ、成功と挫折、喜びと悲しみ。それらはすべて、私という存在を形作る時間の堆積です。失われたものへの感傷もあれば、そこから学んだことへの感謝もあります。そして、過去の経験という名の土壌から、今まさに新しい芽が息吹いているのかもしれない。そう考えると、変化は恐れるべきものではなく、むしろ生きていく上で避けられない、そして豊かな土壌をもたらす過程なのだと、静かに受け止められる気がしました。
変化のただ中で見出す静かな確かさ
すべてが移ろいゆく世界にあって、では、変わらないものなどあるのでしょうか。あるいは、変化の波に揺るがされない、何か「確かさ」と呼べるものは存在するのでしょうか。
物理的な世界は常に変化しています。人間関係も、社会の仕組みも、絶えず形を変えていきます。しかし、旅の途上や、あるいは日常の中でふと立ち止まり、内なる声に耳を澄ませる時、私たちは自分自身の核のようなものに触れることがあります。それは、決して揺らぐことのない信念であったり、大切にしたいと思える価値観であったり、あるいは、ただ「今ここに自分が存在している」という静かなる意識かもしれません。
例えば、古の哲学者は、物質的な世界の無常を説きながらも、理性や徳といった内的なものに不動の価値を見出そうとしました。また、東洋の思想では、すべては移りゆくものであるという「諸行無常」を受け入れた上で、その変化を静観する心のあり方を説いてきました。これらの思想が長い時間を経てなお多くの人々に響くのは、変化のただ中にあって、それでもなお拠り所を求める人間の根源的な願いに応えているからではないでしょうか。
旅の経験もまた、私たちを日常の固定された視点から解放し、自分自身の内なる変化や、変わらない核を見つめ直す機会を与えてくれます。見知らぬ土地で、自分は何に心惹かれ、何に安らぎを感じるのか。計画通りにいかない時、自分はどう反応するのか。そうした一つ一つの問いかけが、移ろいゆく自分という風景の中に、静かな確かさの輪郭を浮かび上がらせてくれるのです。
移ろいと共に生きる
人生の後半という旅路において、私たちは多くの変化を経験し、またこれから経験していくことでしょう。それは時に、これまでの自分を否定されるかのような感覚をもたらすかもしれません。しかし、旅先で目にした移ろいゆく風景がそうであったように、変化は終わりではなく、次の始まりを内包しています。
大切なのは、その変化を拒むのではなく、静かに見つめ、受け入れること。そして、すべてが移りゆくただ中で、自分自身の内なる声に耳を澄まし、静かな確かさを見出す努力を続けることかもしれません。それは、力強く主張するものではなく、波間に浮かぶ小舟のように、静かに、しかし確かにそこにあるものなのです。
移ろいゆく風景を心に刻みながら、内なる静かな確かさと共に、この人生の旅路を歩んでいきたいと、そう願うばかりです。