霧の中の道しるべ 不確かさから生まれる静かな光
霧の中の旅路
旅先で深い霧に包まれた経験が、何度かあります。視界は数メートル先までしか届かず、頼りにしていた地図も、GPSの画面も、どこか心許なく感じられる瞬間です。予定していた道順は曖昧になり、目的地への到達だけが旅の全てではないことを、文字通り肌で感じるような体験でした。
この、先が見えない不確かさは、人生の道のりにも似ているように思えることがあります。特に人生の後半においては、これまで当たり前だと思っていた未来の輪郭がぼやけ始め、若い頃に描いた計画や予測が、次第にその意味合いを変えていくのではないでしょうか。健康のこと、家族のこと、社会の変化、そして自分自身の終わりについて。確かなものなど何もなく、ただ漠然とした霧の中を歩いているような感覚に襲われることもあるかもしれません。
頼りになる「道しるべ」とは
霧の中で立ち止まると、それまで見過ごしていた多くのことに気づかされます。鳥のさえずり、風の音、湿った土の匂い、一歩一歩地面を踏みしめる足の感触。視覚以外の感覚が研ぎ澄まされ、頼れるのは外部の大きな標識ではなく、自分自身を取り巻く静かな気配や、内なる声になります。
それは、長い人生の旅路で培ってきた経験や直感、あるいは過去の失敗から学んだ知恵といったものかもしれません。あるいは、立ち止まることで初めて聞こえてくる、心底からの願いや静かな喜びの感覚かもしれません。かつては「道しるべ」といえば、社会的な成功の指標や、誰かが示してくれた確かな方向性だと思っていましたが、霧の中ではそうしたものはあまり役に立たないのです。
不確かな状況であるからこそ、私たちは外部に答えを求めるのではなく、自己の内面に深く問いかける機会を与えられているのではないでしょうか。人生の岐路で立ち止まり、静かに自分自身と向き合う「道草」こそが、この内なる道しるべを見つけるための大切な時間なのかもしれません。
不確かさから生まれる「静かな光」
霧はやがて晴れます。しかし、霧が晴れた後の景色は、ただ見通しが良くなっただけではありません。霧の中を歩いた時間の重み、その中で感じた不安と、それでも一歩ずつ進んだという実感、そして内なる声に耳を澄ませた静かな集中が、その景色に新たな意味を与えているように感じられます。
人生の不確かさも、同様に受け止められるのではないでしょうか。先の見えない状況や、答えの出ない問いを抱えることは、苦痛を伴うかもしれません。しかし、その不確かさを受け入れ、抗うのではなく、静かにそこに留まることで、焦りや不安の奥底から湧き上がってくる、微かな「静かな光」に気づくことができるのです。
それは、何か大きな目標を達成した時の眩しい光ではなく、心の内側で静かに灯る、ささやかな感謝や、日々の営みの中に見出す美しさ、あるいは自分自身の存在そのものへの穏やかな肯定といったものです。計画通りに進まなくても、遠回りになっても、あるいは目的地にたどり着けなかったとしても、不確かな旅路の途上で得られた内面の豊かさこそが、最も価値のあるものなのかもしれません。
人生という名の長い霧の中を歩むとき、外の道しるべに目を凝らすだけでなく、立ち止まり、自らの心に耳を澄ませてみたいと思います。そこにこそ、不確かさの中から道を照らし出す、静かな光が見つかるのではないでしょうか。